爪剥ぎ、人間を矢の的に、女性を無理やり…日本史上に残る「最悪な暴君」たちの逸話
2020.12.09- #歴史
加来 耕三
歴史家・作家
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弱冠12歳の暴君
日本史(神話も含め)で最も暴虐な人物を1人あげるとすれば、筆者は第25代の武烈(ぶれつ)天皇をあげる。『古事記』に拠れば、8年――この暴君は天下を治めたことになっている。
仁賢天皇の皇子で、継体皇后の同母の弟。この天皇の代で、応神天皇(第14代仲哀天皇と神功皇后の子)以来の王統が断絶するため、その象徴としてことさらに、悪逆無道ぶりが示されたのではないか、とも取り沙汰されている。武烈こそ、日本史上、最悪・残虐の人物といってよい。
『日本書紀』に拠れば、「二年の秋九月に、孕める婦の腹を刳きて、其の胎を観す」とあった。
武烈が即位して2年目=西暦ではちょうど、500年にあたるとされるこの年の9月、彼は妊娠している女性の腹を裂いて、赤ん坊を切り出して見た、という。ちなみに、このとき武烈は12歳。
後世、戦国武将・武田信玄の父・信虎や徳川家康の二男・結城秀康の子である松平忠直(初代越前福井藩主)、三代将軍・徳川家光の弟・駿河大納言忠長など、ときの権力者、勝者に反逆した形の、歴史上の人物にも同様の暴桀奇談は少なくない。が、筆者はそのいずれもが創り話だと受け止めてきた。
写真はイメージです/photo by iStock -AD-それにしても、武烈の暴君ぶりはすさまじかった。即位3年(501)の冬10月には、人の生爪をはぎ取って、その手でいも堀をやらせ、翌年の夏4月には、人の頭の毛を抜いて、木のいただきに登らせ、そのうえで木を切り倒し、人が落下して死ぬのを楽しんだ、という。7年の春2月には、木に登らせた人を弓で射落として殺したとも。
極めつきの暴肌(肌をあらわにさらす行為)は、8年の春3月であろうか。
女をして躶形にして、平板の上に坐ゑて、馬を牽て前に就して遊牝せしむ。女の不浄(陰部)を観るときに、沾れ湿へる者は殺す。湿はざる者をば没めて官婢とす。此を以て楽とす。(『日本書紀』巻第十六)
「躶形」は、裸にしたこと。馬と人間の女性を“性交”させるという、変態行為を強要したというのだ。むろん悪意に満ちた創作であろうが、中国の古典、朝鮮の『三国史記』にも似たような王は登場していた。おそらく、形を変えて古代の豪族の中には、原形に近い暴君もいたのだろう。
もともと日本人は、中国人のように人間を煮て食べるといった残酷・残忍性は民族的にあわなかったようで、行為そのものが残酷・残忍であった、と断定できるものは少なかった。
家康が恋い焦がれた異国の聖女
むごい目にあわせたということでは、意外なのが晩年の徳川家康であったろう。この天下人・家康の愛妾となることを、きっぱりと拒絶した異国の聖女がいた。
文禄元年(1592)の朝鮮出兵のおり、先発の一方の将は、小西行長であった。彼は戦場を彷程うひとりの幼子を保護した。幼女ではあったが容姿才気が人並はずれて秀れていたことが、行長の心を捉えたようだ。
徳川家康/wikipediaより引用 -AD-親の代からのキリシタン信徒である行長(洗礼名をドム=オーギュスタン)は、その幼女を日本に連れ帰り、親代わりになって育てた。当然の如く行長はこの子に、キリシタンの教義も授けている。幼女に「滝子」と名づけ、通称を「おたあ」、物心がつく頃には洗礼を受けさせ、洗礼名を「ジュリア」といった。
“おたあジュリア”は行長の娘のように育てられたが、慶長5年(1600)、彼女が12歳になった年、関ヶ原の戦いで敗れた行長は、一族もろとも京都六条河原の露と消えた。
おたあはその後、行儀作法に精通していることを買われ、伏見城にあげられたが、家康は乙女となったおたあの美しさにひかれ、己れの駿府の城に、彼女を引き取ると、中臈の主席――第一等の官女に昇進させる。
当時、70歳を越えていた家康は、おたあの貴族に通じる品性と容姿に恋いこがれ、ついには夜伽を迫った。
額に十字の焼印
しかし、キリシタンとして教義を身につけていたおたあにすれば、自分の主はただ1人、デウスのみであり、いかに命令であろうとも、家康の侍妾にはなれない、と生命(いのち)を懸けて抵抗し、その命令に従わなかった。
photo by iStock -AD-慶長17年3月、天主教禁令を出した家康は、おたあを捕えて、
「そちは伏見から江戸、さらには駿府と忠勤を励んだこともあり、棄教すれば一切の咎はないが、もし強情をはるというなら、見せしめに同僚の邪教徒の顔に刺青をしたうえで、島流しとし、さらにはそちにも、遠島を申しつけるがどうじゃ」
と迫った。おたあは悩むが、ついには意をひるがえさず、
「お上よりの大恩はありがたく存じますが、わたくしの仕えるのは神(デウス)ただお1人にございます」
と、泣きながら答えた。家康の城には、ルシアとクララという洗礼名の、おたあと仲のよい上臈(二位、三位の女官)がいたが、2人は額に十字の焼印を押され、鞭うたれて流島の刑に処せられる。
食べ物のない場所へ島流し
そのほか、手足の親指を切られる者、生きていけない離れ小島へ流される者、多くをみせしめとしたが、家康はおたあを改宗させることはできなかった。
彼女も甘んじて遠島の刑を受け、伊豆大島―新島―神津島と流されていく。
途中、新島で変わり果てたクララとルシアの2人に会ったものの、おたあはついに食物の乏しい神津島へ。幾度かの、家康からの使者も拒絶。その家康が死んでからは、まさに忘れられた存在となった。
-AD-慶安4年(1651)、おたあはこの地に没した。40なかばであったろうか。
現在、大島の海岸に「おたい浜」と呼ばれるところがあり、その近くには「おたいね明神」という祠があるが、これは「おたあ=お滝」が転訛したものだといわれている。
なお、流人墓地には“朝鮮風”と称される墓塔が1つ建立されているが、誰いうとなくこれこそが、おたあの墓だというようになった。
考えてみれば、残酷な話ではあるまいか。
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