藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について
目次- 羽柴秀長に仕官して活躍する
- 各地で軍功をあげ、大名となる
- 築城を経験する
羽柴秀長に仕官して活躍する
1576年になると、高虎は信長の重臣であった羽柴秀吉の弟・秀長に仕えます。
この時の身分は300石で、10名程度の兵を指揮する身分でした。
初めから指揮官待遇だったのは、浅井長政や織田信澄の元で、目立つ武功を立てていたことが影響したのでしょう。
秀長の元は居心地がよかったようで、ようやく高虎は腰を落ち着けて働ける環境を手に入れます。
秀長は篤実かつ温厚な性格で、自分の武勇をたのみにして気性が激しいところのあった高虎からすると、反発を感じずに仕えやすい相手だったのだのかもしれません。
また、これまでの主人たちと違って、高虎の働きをきちんと評価して、多くの報奨を与えてくれる存在でもありました。
この時期は秀吉が中国地方攻略の軍団長として活動し始めた時期にあたり、高虎もそこで軍功を積み上げていきます。
やがて1581年になると、但馬(兵庫県北東部)の攻略戦で現地の土豪を討伐した功績が認められ、3000石が加増されます。
そして鉄砲大将に任じられ、100名程度の銃撃隊を指揮する立場になりました。
こうして秀長に仕え始めてわずか数年で、高虎の身分は大きく上昇しています。
この時はまだ25才であり、戦場での指揮能力がいかに優れていたかがうかがえます。
高虎はこの後も自分の力を認めてくれる主の元で、いかんなくその能力を発揮して活躍を続けます。
各地で軍功をあげ、大名となる
1582年になると、信長が家臣の明智光秀に本能寺で討たれ、秀吉の立場が大きく変わっていくことになります。
秀吉は信長に代わって天下人になること目指し始め、信長の三男である織田信孝や、重臣の柴田勝家らと争うようになります。
1583年になると、高虎は秀吉と柴田勝家との決戦となった「賤ヶ岳の戦い」に参加します。
そしてこの時、柴田方の猛将である佐久間盛政を銃撃して敗走させました。
この時、佐久間盛政は秀吉に味方した中川清秀や高山右近らの部隊を壊滅させて秀吉軍に甚大な被害を与えており、これを撃退して退けたことには、非常に大きな戦術的な価値がありました。
この功績によって1300石を加増され、高虎の所領は4600石となっています。
さらに1585年の紀州征伐でも、同地を支配する雑賀衆の武将を降伏させ、あるいは謀略によって自害に追い込むなどしており、ここでも多くの軍功をあげています。
また、同年に行われた四国征伐でも活躍し、これらの功績を合わせて5400石を加増され、領地はとんとん拍子に1万石にまで増加し、ついに大名と呼ばれる身分にまで登りました。
この時の高虎は29才で、14才の時点では身一つで戦う足軽だったことを思うと、かつての秀吉を思わせるほどの、破格の速度での出世だと言えます。
築城を経験する
高虎は建築の名手でもあり、多数の城や屋敷を築いてその腕を振るっています。
戦乱の時代であったので、防衛拠点を築くための、優れた築城技術の価値は非常に高く、この点でも高虎は権力者たちに認められていくことになります。
紀州を制圧した後、同地の支配の確立のために築城が行われ、高虎はここで始めて大規模な工事を経験しました。
そして猿岡山城や和歌山城などを建築し、そこで多くを学んで技術や知識を身に着けました。
高虎は学習能力の高い人物でもあり、身分が上昇してからは、学問に励んで知識や教養をも備えていくようになります。
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