大久保利通の名言・格言
大久保利通の名言・格言

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大久保利通の名言には「目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む」、「彼は彼、我は我でいこうよ」などがあります。 西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される大久保利通(1830~1878)の名言をご紹介します。

目次

大久保利通の生涯

氏名 大久保利通 生年月日 1830年9月26日 没年月日 1878年5月14日 享年 47(歳) 国籍 日本 出生地 薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町) 職業 武士(薩摩藩士)、政治家 名言 自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない

1830年9月26日、薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)に下級藩士の長男として生まれる。幼少期に加治屋町に移住し、下加治屋町で西郷隆盛らと共に学問を学び、親友・同志となる。

大久保は胃が弱く武術は得意ではなかったが、討論や読書などの学問では抜きん出ていた。

1857年、西郷隆盛とともに薩摩藩の徒目付となり、また藩内組織・精忠組の長として活動。

1858年、薩摩藩主の島津斉彬が急逝。斉彬の手足となって活動していた西郷隆盛も失脚。代わりに大久保利通が新藩主の実父・島津久光に接近し、側近となる。

1866年、江戸幕府の第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行なう。西郷隆盛らと雄藩会議を計画し、1867年5月に四侯会議を開催するも第15代将軍・徳川慶喜によって頓挫。以降、武力倒幕路線を指向し、倒幕実行の直前まで持ち込むが、1867年11月に徳川慶喜が大政奉還を建白。

1868年、鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戊辰戦争へと拡大。西郷隆盛と勝海舟との会談後、江戸城の無血開城が行なわれる。

明治維新後、大久保利通は参議に就任。版籍奉還、廃藩置県など、中央集権体制の確立を行う。1871年に岩倉使節団の副使として外遊。帰国後、朝鮮出兵を巡る征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助らの征韓派と対立、西郷隆盛らを失脚させる。

1873年に内務省を設置。初代内務卿として実権を握ると学制や地租改正、徴兵令などを実施。富国強兵をスローガンとして国家の近代化を推進。

1877年(明治10年)、鹿児島の私学校生徒の暴動に端を発し、西郷隆盛を指導者とする西南戦争が起こる。大久保利通は京都から政府軍を指揮。西郷隆盛は敗れて、1877年9月24日に城山で自刃。

大久保利通は西南戦争の翌年の1878年5月14日、石川県士族らにより紀尾井坂付近にて暗殺され47年の生涯を閉じた。

大久保利通は西南戦争前に西郷隆盛の参加を知り、西郷との会談のため鹿児島派遣を希望。しかし殺害を危惧した伊藤博文らに朝議で反対される。西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていたという。大久保の暗殺時には、生前の西郷からの手紙を持っていたとされる。

Wikipedia(日本語) / Wikipedia(英語)

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