稀少な有明海の牡蠣「スミノエ牡蠣」は無垢なる海の雫
稀少な有明海の牡蠣「スミノエ牡蠣」は無垢なる海の雫 2026/1/17牡蠣(かき)の季節、到来。瑞々しい磯の香り、乳白色の旨味、すべらかな舌ざわり──。冬の海の恵みを、今年も存分に味わいたい。
母なる干潟で育つ、希少な天然在来種
真牡蠣でも岩牡蠣でもない、有明海の地牡蠣。その身は濃厚にして磯臭さは皆無、可憐な香りと澄んだ旨味で知られている。天然もののため、市場に出回るのはごくわずか。この希少な牡蠣を追った。
干潮時、有明海の干潟に姿を現す牡蠣礁(かきしょう・牡蠣の殻が何層にも集積した海底の礁)で採れた、恐らく2年物のスミノエ。土地の人々が「デカい、甘い、エグみが少ないのが特徴」と語る通りの、堂々たる大きさだ。大潮の日、干潟には牡蠣漁師たちが立つ。昼夜を問わず、潮の満ち引きに合わせて、ひたすら牡蠣を“摘む”。
有明海の牡蠣漁は、牡蠣殻の塊である牡蠣礁に降り立ち、大きな潮干狩りの要領で牡蠣を掘り集める。江戸から続く伝統漁法だが、今では牡蠣漁師は10人足らずだという。左端が、取材に同行してくれた野中隼斗さん。有明の海は濁っている。だが、この海の茶色こそ豊饒なる生命の色なのだ。
海苔養殖の支柱が立ち並ぶ干潟。海水は茶色く植物性プランクトンが豊富で、スミノエ牡蠣やムツゴロウなど固有種が多く棲息するが、昨今の環境変化により生態系が激変しているという。有明海の精髄にかぶりつく 文/大岡 玲
早い。いや、迅い、と書いた方がいっそう実感に近い。潮の引いていく速度が、である。大潮の前日とはいえ、つい一時間前までは二メーターほどもあった水深が、今はもう五十センチに満たない。乗ってきた四・五トンの漁船は、干潟の泥に完全に船底をつけている。有明海の潮の満ち干は日本で一番激しく、その差は六メートルにもなる、と知識で知ってはいても、目の当たりにするとやはり驚愕のひと言だ。まるで川の流れそのもののスピードで水が流れ、海が干上がっていく。
船から二キロほどもある岸辺の方角に目をやると、低い土塁のようにも見える物体が、帯状にいくつも姿をあらわしている。牡蠣の殻でできあがったこの牡蠣礁は、内湾や河口域にできあがるもので、牡蠣が何世代にもわたって作りあげる、言わば牡蠣のタワーマンションだ。そして、有明海のそれは日本有数の規模を誇っている。
今現在、有明海の名産品は? と訊けば、たいていの人は「海苔」と答えるだろう。しかし、かつては牡蠣、それもこの地にしか棲息しない“スミノエガキ”という品種が名産だったらしいのだ。明治から昭和の戦前頃まで、この牡蠣は台湾などに輸出されていたらしく、まことに盛大な産業だったのである。それが戦後の高度成長期に海苔養殖が盛んになった結果、地元以外の広がりを失って「まぼろし」の牡蠣になったのである。
その「まぼろし」に出会うため、私は干潟の真ん中にやってきたのだった。案内してくださるのは、極丸水産の代表・野中隼斗さんだ。彼は、牡蠣礁で採れる天然のスミノエ牡蠣を、さらに沖合で時間をかけて畜養して出荷している若手漁師である。
平底の和船を漕ぐ、牡蠣漁師の野中さんは31歳。 牡蠣は、岩や他の貝に付着して大きく育つ性質がある。漁師たちは、張り付いた稚貝をノミで落とし、海に戻してから採取する。 極丸(きわみまる)水産有明海の将来を担う、若き牡蠣漁師の野中隼斗さんの営む会社。スミノエ牡蠣の販売や卸先は、インスタグラム(@kiwamimaru__saga77)にて告知。『黒猫庵』でも提供あり。佐賀県鹿島市大字音成乙1905電話:090・8414・6226
牡蠣礁の、圧倒的な生命感
牡蠣礁での漁は、無数にある稚貝の中から、目を凝らすようにして生きて成長した個体を探す。その野中さんが竿一本であやつる小さい平底舟に乗り移り、私は牡蠣礁に降り立った。そこは泥以外すべてが牡蠣やその他の貝類でできあがっていて、主たる住人である牡蠣たちは、殻の開け閉めごとにぴゅーぴゅーさかんに海水を吐いている。圧倒的な生命感だ。
その光景に恍惚としていると、野中さんがさっそく生きたスミノエ牡蠣を探して見せてくれた。
一年半から二年物だろうというその大きい牡蠣は、平たくて丸い。フランスはブルターニュの名産ブロン牡蠣(ヨーロッパヒラガキ)を思い起こさせる。細長い真牡蠣とはあきらかに異なる姿だ。野中さんによれば、貝柱が非常に発達して太い、という特徴もあるらしい。見るからに旨そうだ。周囲では、地元の漁師の方々二、三人が、熱心にその牡蠣を採っている。
野中さんの説明によれば、牡蠣をはじめとする二枚貝は、海苔の養殖にとって大敵である植物プランクトンを捕食するため、非常によい相補関係をつくっているのだという。その意味でも、彼らの存在は人間にとっての大いなる自然の恵みなのだ。うれしくなって、ますます食欲が湧いてくる。
午前十時に出港し、干潮で漁に励み、ふたたび潮が満ちるのを待って午後三時半に帰港する。都合五時間半の船旅だった。そして、いよいよスミノエ牡蠣にかぶりつく時がやってきた。取材時は十月のあたまで、牡蠣の盛期が始まる十一月にはまだ間があったため、野中さんは「まだ身が充分に太ってはいない」とおっしゃったが、それでもなかなかの面構えである。聞いていたとおり、貝柱が太い。そして、盛期であれば乳白色に膨れているはずの身の部分は、半透明でいかにも可憐な風情だ。その身を一息に吸い込み、噛みしめる。
すると、口中にひろがるのは、有明海の精髄としか思えない旨味たっぷりのスープである。外套膜のしゃきしゃきした歯ごたえがそれに続き、なんともいえない甘みが舌をなぶる。すべてが喉を通っていく時に、やがてこの牡蠣が持つだろう豊満の予感がさざなみのようにからだを満たしていく。なんという甘美さ。真牡蠣が持つストレートな清冽とは一味ちがった、ふくよかでやさしい、沁みわたる旨さに圧倒された。
11月あたまの牡蠣の身。ヨーロッパヒラガキのような丸い姿で、大きな貝柱と外套膜は強い甘みがあり、乳白色の生殖巣は濃密なコクを持つが、磯臭さやエグみはない。翌日は、浜辺に近い牡蠣焼きの店で、スミノエ牡蠣を焼いてもらった。月並みだが、まさに野趣横溢の趣向で食べる焼き牡蠣は、どこまでもふくよかに旨味が炸裂して、言葉を失うほどだった。そして、そこには生で供された時と同じく、太古から人々の営みを支えてきた有明海の豊かさがそのまま封じ込められているように感じられた。さあ、スミノエ牡蠣が本気を出す真冬の到来だ。
大岡 玲(おおおか・あきら)作家。東京経済大学教授。昭和33年、東京生まれ。東京外国語大学大学院ロマンス系言語科修了。近著に『日本語はひとりでは生きていけない』。好きな牡蠣料理は焼き牡蠣とカキフライ。
佐賀・鹿島市でスミノエ牡蠣が味わえる2軒
八光 有明海沿いの牡蠣小屋『八光』では、採れたてのスミノエの焼き牡蠣が楽しめる。近隣の「道の駅鹿島」では、殻付きの生牡蠣を販売予定。佐賀県鹿島市飯田甲4910-3電話:090・3322・0667有明海沿いの牡蠣小屋。スミノエ牡蠣など地元の魚介のみを扱う。
日本料理 津上佐賀県鹿島市高津原3779-15電話:090・9493・7433鹿島の食通が集う板前割烹。スミノエの生牡蠣、牡蠣のオイル漬け、カキフライなどが楽しめる。
撮影/繁延あづさ
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