「引退試合」棚橋弘至、「レスラー人生26年」で3つの分岐点「猪木問答」「武藤敬司超え」…ヒストリーを振り返る
「引退試合」棚橋弘至、「レスラー人生26年」で3つの分岐点「猪木問答」「武藤敬司超え」…ヒストリーを振り返る 2026年1月4日 16時0分スポーツ報知◆新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 20 in 東京ドーム 棚橋弘至引退」(4日、東京ドーム)
新日本プロレスの棚橋弘至が4日、東京ドームでAEWのオカダ・カズチカとの引退試合を行う。
99年10月にデビュー。自らを「100人に一人の逸材」と呼び、数々の名勝負で感動を与え、「愛してま~す」と叫び積極的にファンと交流することでプロレスの魅力を発信し続けた26年のレスラー人生に終止符を打った。今後は新日本プロレス社長に専念し、プロレス界を牽引する。
棚橋のレスラー人生を振り返るとエースに駆け上がる分岐点は、3つだったと思う。
1つ目が2002年2月1日、札幌の北海道立総合センターで展開された「猪木問答」だ。新日本プロレスの創設者で当時、筆頭株主だったアントニオ猪木は、武藤敬司ら主力選手と幹部社員が全日本プロレスへ移籍したことに激高。すでに現役引退していたが、蝶野正洋、永田裕志らが上がったリングで「お前ら何に怒っているんだ?」と迫った。
当時は、総合格闘技の人気が急激に高まり、プロレスは暴露本などが相次いで出版され、勢いを失っていた。猪木は、自身の現役時代がそうだったように道場で格闘技のベースを培った上でのプロレスを理想に掲げていた。しかも選手を総合格闘技のリングへ参戦させるなどの強権を発動していた。
札幌のリング。猪木に突きつけられたマイクに棚橋は、言い切った。
「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」
プロレスを格闘技へ染める猪木への明らかな反抗だった。そして、このプロレスを貫く決意がプロレスファンの共感を呼び、言葉通りセルリアンブルーのマットで激闘を繰り返しファンの絶大な信頼を勝ち取った。棚橋は猪木と対戦した経験はないが本気で「燃える闘魂」とプロレス感をぶつけた最後の選手だった。「猪木イズム」からの解放が新たなファンを開拓した意味でも「猪木問答」は、棚橋の存在を際立たせた分岐点だった。
2つ目は、私生活のトラブルだ。2002年11月28日に都内のマンションで交際中の女性と別れ話のもつれから刃物で背中を刺された。この事件で新日本プロレスから30パーセントの減俸処分を受け、被害者ではあったが女性問題が発覚しファンの信頼を失った。
頭を丸め、事件から3か月後の03年2月16日両国国技館大会での中西学戦で復帰したが、それまで積み重ねてきた人気は失速。レスラー人生で最大のピンチだったが、リング上で懸命なファイトを続けることで時間はかかったが信頼を取り戻した。プロレスラーであるなら、リング上はもちろん、私生活でも失敗は、戦いで取り戻すことを体現した。このトラブルを経て試合で手を抜かない献身的なファイトスタイルが確固となった。
3つめは、武藤敬司を超えた一戦となる09年1・4東京ドームだ。全日本プロレス所属でIWGPヘビー級王者だった武藤を破り、プロレス界の世代交代を達成した。
入門直後に武藤の付け人を務めた棚橋は、猪木が標榜する格闘技を理想とするプロレスでなく純粋にプロレスへの道を追い求める武藤へ傾倒していた。グレート・ムタとして全米でトップを極めた武藤は「プロレスLOVE」を宣言し、猪木プロレスとの決別、差別化を追求した。
17年前の東京ドームで武藤を倒した一戦は、武藤に代わる「プロレスLOVE」の継承を認められた戦いでもあった。棚橋は、武藤よりもさらにファンに接近し「愛してま~す」を各会場で叫び、ファンへプロレスの素晴らしさを伝道した。
棚橋弘至のレスラー人生26年。引退試合でドームを札止めにしたカリスマとなった道程に私は、この3つがあったと思っている。
(福留 崇広)
◆棚橋弘至ヒストリー
▼誕生
1976年11月13日、岐阜・大垣市で生まれる。
▼プロレスとの出会い
幼少期にプロレス好きな祖母の影響でテレビで新日本プロレスを中継するテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」を見る。
▼学歴
大垣市立東中から岐阜県立大垣西高へ進学。高校時代は野球部だった。大学は、立命館大法学部に進み、プロレス同好会に入る。同じ同好会の先輩には、お笑いタレントのユリオカ超特Q、レイザーラモンRGがいる。
▼新日本プロレス入門
大学に在籍しながら96年春と同年秋の入門テストを受けるも不合格。大学3年だった98年2月の入門テストで合格。大学を卒業した跡の99年4月に入門。
▼デビュー戦
99年10月10日、後楽園ホールでの真壁伸也(現:刀義)戦。9日後の10月19日に井上亘を敗り、プロ初勝利。
▼刺傷被害事件
2002年11月28日に都内のマンションで交際中の女に別れ話のもつれから刃物で背中を2回、刺される。全治10日と診断されたが、傷は深さ約10センチで肺に達しており、普通の体格なら致命傷になっていた恐れがあった。この事件で新日本プロレスから30パーセントの減俸処分を受ける。03年2月16日両国国技館大会での中西学戦で復帰。
▼初リーグ戦制覇と初ベルト奪取
03年3月、自らが提唱した「U―30(30歳以下限定王座)」リーグ戦で優勝し初代U―30王者となる。同年6月13日、吉江豊とのタッグでIWGPタッグ王座を奪取。さらに11月30日には永田裕志とのタッグで、ノアの小橋建太&本田多聞を下しGHCタッグ王者となる。
▼IWGP初奪取
06年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して同タイトルを初戴冠。第45代王座に輝く。
▼G1初制覇
07年大会で永田裕志を優勝決定戦で破り初制覇を達成。
▼チャンピオンカーニバル出場
08年4月に全日本プロレスの春の祭典「チャンピオン・カーニバル」に初出場し準優勝。
▼師匠「武藤敬司」超え
新弟子時代に付け人を務め、師匠と仰ぐ全日本プロレスの武藤敬司を09年1・4東京ドームで初めて倒しIWGPヘビー級王座を奪還。
▼IWGPヘビー級王座「連続防衛記録」
2011年1・4東京ドームで小島聡を破りIWGPヘビー級王座を奪還。以後、11連続防衛の当時での最多防衛記録を樹立。12年2月12日、オカダ・カズチカに敗れ記録は途切れた。
▼中邑真輔とベルトとG1での抗争
14年1・4東京ドームで中邑真輔を下し、IWGPインターコンチネンタル王座を初奪取。同年2・9広島サンプラザホールで中邑の挑戦を受け勝利も続く4・6両国国技館大会で中邑に敗れ陥落。15年には「G1クライマックス」優勝決定戦で中邑を倒し8年ぶり2度目の優勝を飾る。
▼長期欠場
2016年5・21後楽園大会でケニー・オメガに左肩をラダー、パイプ椅子で乱打され、左肩を負傷。左肩腱板剥離骨折、左上腕二頭筋断裂と診断され約2か月間、欠場。復帰戦は「G1」開幕戦となった7・18札幌・北海きたえーるでのSANADA戦。
▼復活&記録更新
17年6・11大阪城ホール大会で内藤哲也を破りIWGPインターコンチネンタル王座を奪取。9・16広島サンプラザ大会でザック・セイバーJr.を破りV2、11・5大阪府立体育会館では飯伏幸太を倒しV3を達成。18年1・4東京ドームでジェイ・ホワイトを破りV4。8・12日本武道館での「G1クライマックス」優勝決定戦で飯伏を破り、3年ぶり3度目のG1制覇を達成する。
そして19年1・4東京ドームでケニー・オメガを破りIWGPヘビー級王座を奪還。これが8度目の同王座戴冠で自身の持つ最多戴冠記録を更新した。
▼社長就任
2023年12月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任。アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰爾に続く史上4人目の“選手兼社長”となった。
▼引退表明
2024年10・14両国国技館大会で2026年1月4日東京ドーム大会で引退することを発表。
▼ファイナルロード
2025年1・4東京ドームのEVIL戦から「棚橋弘至ファイナルロード」がスタート。
▼引退試合
昨年11・8愛知・安城市の東祥アリーナ安城大会でオカダ・カズチカが登場し引退試合の対戦相手に名乗り出る。棚橋も受け入れ、2026年1・4東京ドームでの引退試合の対戦相手がオカダに決まった。
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