森鴎外『山椒大夫』あらすじと解説【安寿はなぜ自分を犠牲に?】
スポンサーリンク スポンサーリンク 目次- はじめに【太宰治の小説『津軽』を読んでいて・・・】
- 森鴎外『山椒大夫』あらすじと解説【安寿はなぜ自分を犠牲に?】
- 森鴎外(もりおうがい)とは?
- 『山椒大夫(さんしょうだゆう)』とは?
- 『山椒大夫』あらすじ(ネタバレ注意!)
- 『山椒太夫』【解説と個人的な解釈】
- 説経の『さんせう太夫』と『山椒太夫』の違いについて
- 解説と個人的な解釈
- 『山椒太夫』【解説と個人的な解釈】
- 森鴎外(もりおうがい)とは?
- あとがき【『山椒太夫』の感想を交えて】
- 森鴎外【他の作品】
はじめに【太宰治の小説『津軽』を読んでいて・・・】
密かに、「いつか太宰治の小説『津軽』の地を巡りたい」と思っているわたしは、定期的に文庫本を手に取っています。ところが、ある行から前に進めなくなってしまったのです。当国岩城山の神と云ふは、安寿(あんじゅ)姫(ひめ)出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、三庄(さんしょう)太夫にくるしめられしゆゑ、(中略)一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。(太宰治『津軽』) 太宰も同じことを言っていますが、丹後の人こそ、いい迷惑です。それにしても伝承とは面白いものです。岩代という文字が岩城になり、それを「いわき」とでも読んだのでしょうか。 あくまで読み物ですので、真実のことはさておき、無性に森鴎外の『山椒大夫』が読みたくなった次第です。
スポンサーリンク森鴎外『山椒大夫』あらすじと解説【安寿はなぜ自分を犠牲に?】
森鴎外(もりおうがい)とは?明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森林(りん)太郎(たろう)。(1862~1922)森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。 4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。 軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳) 近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。
森鷗外
『山椒大夫(さんしょうだゆう)』とは?『山椒大夫』は森鴎外の短編小説で鴎外の代表作の一つともいわれています。 説経節、浄瑠璃の形で伝承されていた有名な演目『さんせう太夫伝説』を原話として執筆され、大正4(1915)年1月『中央公論』に掲載されました。
『山椒大夫』あらすじ(ネタバレ注意!)越後(新潟県)から今津(兵庫県)へと出る道を、三十歳過ぎの母親が二人の子供と、一人の女中を連れて歩いていました。姉の名は安寿(あんじゅ)といい十四歳になります。弟の名は厨子王(ずしおう)、十二歳です。そして女中は四十歳くらいで姥(うば)竹(たけ)といいました。 どうやらこの一行は、岩代の信夫(しのぶ)郡(ぐん)(かつて福島県にあった郡)を出て、遠く筑紫の国(九州地方)を目指しているようです。それは、―――旅立ったまま帰らない、父親の消息を確かめるためでした。 一行(いっこう)がしばらく黙って歩いていると、向こうから潮汲(しおく)み女がやって来ました。女中が「この辺りに宿をする家はありませんか?」と訊ねたところ「この国の掟(おきて)で、旅人に宿を貸すことが禁じられています。」と言います。 続けて「近ごろ、悪い人買いがこの辺りに出るようになって、旅人に宿を貸したものにはお咎(とが)めがあるのです。」と、教えてくれました。そこで潮汲み女は、橋の下で野宿をするように勧めます。
母親と一行はその言葉に従い、橋の下を一夜の宿とすることにしました。そして、常備していた、おこし米(ごめ)などを食べていたときです。―――四十歳くらいの男が、突然橋の下に姿を見せました。
※おこしごめ 米に蜜(みつ)をまぜ合わせながら煎(い)った菓子。後世のおこしの原型。
驚いている親子に、男は「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。」と名前を告げて、これまで気の毒な旅人を何度も救っていると教えます。そして自分の家に泊まるようにと勧めます。母親は深く感謝し、その親切心に甘えることにしました。 その夜、母親は自分たちの旅の理由を山岡に語り、「陸(おか)を行ったらいいものか、それとも船路を行ったらいいものか。」と相談します。山岡は知れたことと船路を行くことを勧め、「翌朝には舟を出すから乗せてやろう。」と言いました。 母親は決して山岡を信じていたわけではなく、どちらかといえば猜疑(さいぎ)心(しん)を抱いていたのです。けれども断ることができないのは、山岡にどこか恐ろしいところがあったからです。―――翌朝、一行は言われるままに、山岡の船に乗りました。
山岡は、しばらくのあいだ岸に沿って南へと漕こいで行きました。すると、人気のない岩陰に二艘の舟が止まっています。一人の船頭は宮崎の三郎といい、もう一人の船頭は佐渡の二郎といいます。 山岡はそこで、二人の子供を宮崎の舟へ、母親と女中は佐渡の舟へと乗り移らせると、櫓(ろ)を急いで動かして、遠ざかって行ってしまいました。一行は当然同じ方向に進むものと思っていました。ところが、二艘の舟は次第に遠ざかって行きます。 宮崎の舟は南に、佐渡の舟は北へと漕いで行きます。騙されたことに気付いた母親は、「安寿(あんじゅ)は守本尊(まもりほんぞん)の地蔵様を、厨子王(ずしおう)は護り刀を大切におし。」と、必死で叫びました。子供たちはただひたすら、母親を呼ぶばかりです。 女中の姥竹は、佐渡の二郎の足にすがりついて懇願こんがんしました。けれども足蹴あしげにされるだけです。絶望した姥竹は、海へと身を投げました。母親も後を追おうとしましたが、捕らえられてしまいます。
安寿と厨子王は、丹後の国(京都北部)の山椒(さんしょう)大夫(だゆう)という富豪に買われます。名乗らなかった姉弟に、山椒大夫は、安寿に垣(しのぶ)衣(ぐさ)、厨子王に萱草(わすれぐさ)と名付けました。 山椒大夫には二郎と三郎という二人の息子がいて、奴婢(ぬひ)(奴隷)たちの管理をさせています。三郎は、安寿に潮汲み、厨子王には柴刈(しばか)りを命じました。翌日からそれぞれ持ち場についた姉弟でしたが、作業のやり方が分かりません。 けれども、捨てる神あれば拾う神ありです。厨子王は樵(きこり)に、安寿は伊勢の小萩(こはぎ)という買われてきた女に手ほどきを受け、何とか初日の割り当てをこなすことができました。
十日が過ぎると、姉弟はそれぞれ別の小屋に入ることになっていました。けれども二人は死んでも離れないと言います。二郎は大夫に「もしも本当に死んだら損になります。」と言い、そのまま一緒に置かれることになりました。 姉弟はいつも、父母への逢いたさのあまり、夢のような会話をしています。ある日姉は弟に「お前一人で逃げて両親を探すように。」と言いました。けれども運悪く、その会話を三郎に立ち聞きされていたのです。 三郎は姉弟を山椒大夫の前に引き出します。そして、「逃亡の企てをしたものの掟おきてじゃ。」と言い、姉弟の額に十文字の焼印を施したのでした。二人は気を失いそうになりながら小屋に戻ると、持っていた守本尊の地蔵を枕元に置きます。 すると、どうしたことでしょう。姉弟の額の痛みがすっかりと掻かき消されたのでした。傷痕きずあとも無くなっています。そこで姉弟は目を覚まし、お互いが同じ夢を見ていたことを知ります。地蔵を取り出してみると不思議なことに、眉間の左右に十文字の傷がついていました。
この一件から、安寿の様子が変わっていきます。言葉は少なくなり、伊勢の小萩にも不愛想ぶあいそうです。何やら内に秘めている様子なのです。厨子王は、そんな姉のことを心配していました。 春になると、安寿は「どうか、弟と一緒に山の仕事をさせて下さい。」と、二郎に頼み込みます。二郎は受け合いますが、三郎は注文をつけます。それは「髪の毛を切って男のような姿になれ」とのことでした。安寿は髪を切り、山に行くことを許されます。 翌日、姉弟は一緒に山へと向かいます。厨子王は嬉しさの反面、どこか悲しいような思いで胸がいっぱいになりました。「わたしに隠して、何か考えていますね。」と訊ねても、安寿は何も答えません。 弟がいつもの場所で柴を刈ろうとしても、姉は「もっと高い所へ登ってみましょう。」と言い、厨子王を山の頂いただきまで連れて行きました。そして安寿は厨子王に、小萩に聞いた京都までの道を教えます。 「都へ行けば、筑紫のお父さま、佐渡のお母さまの身の上も知ることができましょう。」 厨子王は一人残される姉のことが心配でなりません。けれども姉の強い意思には背くことができませんでした。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡します。そして泉の湧く場所で弟を見送った安寿は、ひとり入水(じゅすい)したのでした。
※入水(じゅすい) 水中に身投げして自殺すること。
三郎が大勢の追手おってを連れ、中山の国分寺へと押しかけます。勿論それは、(もしや厨子王を匿かくまってはいないか)との疑いがあるからです。住持の曇(どう)猛(みょう)律師(りっし)は「天皇の命で建てられたこの寺で狼藉ろうぜきを働いても得にならない。」と言い、三郎を退けました。
※狼藉(ろうぜき) 物が散らされていること。乱雑な様子。ちらかった様子。乱暴なふるまい。
このとき、寺の鐘楼(しょうろう)守(もり)が、「十二、三歳の子供が昼頃に南のほうに行ったのをわしは見た。」と、嘘を三郎に教えます。三郎はこの嘘にまんまと引っかかり、後を追いかけました。
※鐘楼守(しょうろうもり) 鐘楼を守る人。鐘つき堂の番人。
それから数日後のことです。曇猛律師は、頭を剃って坊主に変装した厨子王を連れて、京の都を目指しました。厨子王を無事に送り届けるためです。都に上った厨子王は清水寺で一夜を明かします。あくる朝、目を覚ますと、一人の老人が枕もとに立っています。
老人は厨子王に「関白師(もろ)実(ざね)じゃ」と名乗り、「ここに寝ている子供が良い守本尊を持っている。それを借りて拝むようにと夢のお告げがあった。どうか身の上を明かして、守本尊を貸してくれないか。」と、頼みます。 厨子王はこれまでのいきさつを語り、仏像を見せました。仏像を手に取った師実は驚きます。それは、平氏の先祖である高名な家柄に伝えられている仏像だったからです。 そして師実は、厨子王のことを「筑紫へ左遷させられた平正氏の子に違いない。」と言い、自分の家の客人としてもてなすことにしました。 厨子王は元服げんぷくをし、正道と名乗りました。関白師実は筑紫へと使いを出して父親の消息を探らせます。けれども、すでに亡くなっていたことを知らされます。その後、正道は丹後の国守に任じられます。
※元服(げんぷく) 男子が成人したしるしとして冠(かんむり)(または烏帽子(えぼし))や特定の衣服をつけ、名をあらためること。またその儀式。
正道は、最初の政(まつりごと)として、人の売買を禁じました。山椒大夫も奴婢を解放し、小萩は故郷へと帰されました。恩人の曇猛律師には高い位を授け、安寿が入水した沼の畔(ほとり)には尼寺が建てられました。
正道は母親を探すため、佐渡に渡りました。けれども消息はなかなかつかめません。ある日正道は、思案にくれながら道を歩いていました。ふと大きい百姓家を見ると、襤褸(ぼろ)を着た盲目の女が筵(むしろ)に座っています。 何故か正道はこの女に心が惹かれてしまいます。女は乾している粟を啄(ついば)もうとする雀を追いながら、何やら歌のようなものを口ずさんでいました。 安寿恋しや、ほうやれほ。 厨子王恋しや、ほうやれほ。
正道はこの詞に聞き惚れます。そして百姓家の中に駆け込んで、女の前にうつ伏しました。そのとき、守本尊が女の額に押し当てられます。すると、どうしたことでしょう。女の目には潤いが戻っていきます。 女は目を開きました。「厨子王!」という叫び声が女の口から出ます。そして二人は固く抱き合ったのでした。
青空文庫 『山椒大夫』 森鴎外https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_23257.html
『山椒太夫』【解説と個人的な解釈】 説経の『さんせう太夫』と『山椒太夫』の違いについて『歴史其儘と歴史離れ』森鴎外を参考
- 焼印を押されるはなし『山椒太夫』―――――姉弟二人が同時に見た夢の中の物語。『さんせう太夫』―――実際に焼印を押される。
- 安寿のその後『山椒太夫』―――――入水自殺を遂げる。『さんせう太夫』―――山椒大夫の手下に責め殺される。
- 山椒太夫のその後『山椒太夫』―――――奴婢を解放して、給料を払うようにさせる。『さんせう太夫』―――竹の鋸(のこぎり)で挽(ひ)き殺させる。
- 山椒太夫の息子たち『山椒太夫』―――――太郎は失踪し、二郎が姉弟を労わり、三郎は姉弟を虐げる。『さんせう太夫』―――太郎と二郎が労り、姉弟を虐げた三郎は殺される。
説経の『さんせう太夫』と『山椒太夫』の違いについて上記しましたが、森鴎外は物語の残酷な部分を取り除いて作品を完成させています。きっと、子供にも読ませるための工夫の一つでもあったでしょう。 鴎外はこの作品について「わたくしは伝説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。」(『歴史其儘と歴史離れ』)と語っています。つまり「夢と希望」を失わないことの大切さを読者に伝えたかったのだと個人的には解釈しています。
青空文庫 『歴史其儘と歴史離れ』 森鴎外https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/684_18395.html
スポンサーリンクあとがき【『山椒太夫』の感想を交えて】
作品を読んでみて個人的に気になるのは、「安寿はなぜ自分を犠牲にしたのか?」という点です。ですからこの一点だけに絞って感想を述べさせて頂きます。 原話だと安寿は時間稼ぎをして、厨子王を逃がし、結果的に責め殺されてしまいます。しかし『山椒太夫』では時間稼ぎもしないで入水自殺をしてしまいます。(それなら一緒に逃げたら良かったのに?)といった意見もあるでしょう。 ここからはわたしの個人的な想像になるのですが、守本尊を厨子王に渡した安寿は、それでも心もとなくて、もうひとつの祈願を試みたように思います。それは自らが人柱になることでした。 現代に生きるわたしたちには理解できないかもしれませんが、作品が書かれた大正時代はまだ自己犠牲の精神が残っていたものと考えます。ともかくとして、厨子王が母親に逢うことができたのは、安寿の霊験によるものだったと思いたいです。
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