消え行く遊里の残痕 京都「中書島」遊郭跡
公娼制度、すなわち遊郭の歴史は古く、その始まりは通説では室町時代と言われている。 いわゆる勃興期が江戸時代で、江戸に吉原ができたのもこの時代。当時の遊郭と言えば幕府公認であったが、その公許の廓が京都には3ヶ所存在した。ひとつは先日書いた島原、そしてあとのふたつが伏見にあった。
スポンサーリンク公許の廓だった中書島
伏見のうちのひとつがおけいはんこと京阪電車のターミナル駅、中書島である。 宇治の世界遺産へ行ったときに乗り換えで使ったことはあるが、降り立ったのは初めて。
遊郭跡へは駅から北へ伸びる商店街を進む。 昭和5年発行の『全国遊廓案内』によれば、貸座敷84軒、娼妓約400人となっているのでかなりの規模だったことが窺える。 付け加えると、娼妓はほとんどが居稼ぎ制で回しは取らなかった、とある。
先に結末を述べておくと、1958年(昭和33年)の売防法完全施行により花街に転じたが、1970年(昭和45年)に終焉を迎え、今では住宅地の中にぽつぽつ遺構が残る程度、となっている。
その遺構でいたく感動的な佇まいを見せてくれるのがこちらの新地湯さん。 挨拶代わりの一撃とでも言うべきパンチの効いた外観は、昭和初期に建てられたまさに一級品。 ちなみに現役ですよ。
ちなみにこのあたり、何やらスナックなどが多い歓楽色の強い街並みとなっているが、たぶんこれは駅から遊郭へ向かう客たちの通り道だったからであろうと思う。
地名に「新地」という名がつけば、だいたいそこには「色」のついた街があったと決めつけてしまってもほぼほぼ間違いではないと思う。 まぁ地名として残っていないことのほうが多いと言えば多いが。
若干カフェー調の匂いがする喫茶店。京都なのになぜかニュー雲仙。 オーナーが長崎人なんですかね。
遊郭があったのは東柳町、西柳町というところで、駅から北へ200mほど歩いたあたりが玄関口となる。 遊女屋はおもに東柳町のほうに密集していたそうであるが、それにしても駅から近い。同じく京都の橋本遊郭なんて徒歩1分だし。 このあたり、せっかちな関西人の気質が現れてるような気がしてならないんだけどどうなんだろう。
北へ進むと突き当たりに中華料理屋があり、それを避けるように少しずれて再び北へ続く。その先が遊郭跡になるが、入口のところに中書島らしい名前の居酒屋があった。 その理由については次頁で述べることにする。
そう言えばちょっと面白い貼り紙があった。 いくらなんでも45才を女の子と言うのはいささか猟奇的すぎるだろう。 20歳と45歳って親子でも成立する年齢差だぞw
というわけで西柳町から散策。 ほぼ唯一とも言える遺構がこちら。屋号が「花柳」となってるあたり、料亭だったのではないか。なーんか、妓楼っぽくないんだよな。ずいぶんきれいだし。
飾り窓が異様に艶っぽい。というかでかい。
ちなみに今は「ふじわら」という居酒屋になっている様子。 機会があれば是非ここで呑んでみたい。
機会・・なさそうだな(´・ω・`)
ふじわらさんの横にもなかなか味のある建物が。 袖看板がついていたであろう場所にはラーメン屋の赤提灯。 一体どんなラーメンが食べれるのだろうか。
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