【太平洋戦争】「墜ちてゆくのは皆、友軍機ばかり」…青年士官が手記に残したソロモン航空戦の実相
2025.09.30- #零戦
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神立 尚紀
カメラマン・ノンフィクション作家
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戦後80年。私はそのうち30年以上にわたり、日本海軍の戦闘機搭乗員を中心に旧軍人、遺族、関係者の取材を重ねてきたが、その過程で、遺族や戦友会、クラス会から託された史料も少なくない。そこで、不定期にはなるが戦時中、当事者によって書かれた日記、手記をシリーズで紹介していこうと思う。
その最初に、昭和18(1943)年6月30日、ソロモン諸島レンドバ島上空の空戦で戦死した大野竹好中尉の手記を4回にわたって取り上げる。今回はその第3回である。この手記は、大野中尉の出身期である海軍兵学校六十八期のクラス会が解散した際、同期の生き残り戦闘機搭乗員であった中島大八氏(元大尉)よりコピーとともに後事を託されたものだ。原本はクラス会が持っていると聞かされていたが、クラス会幹事も亡くなり、いまやどこにあるかはわからない。
(本文は海軍の縦書き用箋全64ページに平仮名、旧仮名遣い、旧漢字で書かれているが、ここでは新仮名、新漢字で表記、明らかな誤字は改め、解説を付する)
昭和18年6月16日、ブカ基地を出撃する二五一空の零戦搭乗員たち。正面で敬礼するのは大野竹好中尉。以下、最前列は左から坂上忠治上飛、林喜重中尉、橋本光輝中尉、大木芳男飛曹長、大宅秀平中尉、磯崎千利少尉この記事の全ての写真を見る(全19枚)-AD-(第3回<【太平洋戦争】ある青年士官が手記に書き残した「大戦中期の天王山」ラバウル・ソロモン航空戦の実相>より続く)
自らを盾とした戦闘機
昭和18(1943)年5月10日、零戦58機を擁してラバウル東飛行場に進出した第二五一海軍航空隊は、同14日、ニューギニア東部のオロ湾空襲で初陣を飾ったが、翌15日には不時着機捜索のため発進した第一分隊長木村章大尉機と中山義一二飛曹機が悪天候で行方不明になるなど、早くも苦戦のきざしが見えてきていた。6月7日、12日には、ソロモン諸島ルッセル島上空の大空戦で少なからず犠牲を出している。今回も、第三分隊長だった大野竹好中尉が戦いの合間に書いていた手記から、大戦中期の天王山となったラバウル、ソロモン航空戦の実相を紹介する。
〈翌六月十六日、天候は上々であった。八時半出発の予定が十時に変更された。八時頃ボーイング一機が偵察に来たが、零戦五機で之を追撃、たちまち撃墜した。九時、二十二機の零戦はブカ基地を発進、十時、ブイン上空で二〇四空の零戦二十四機、五八二空の零戦二十四機(注:うち八機は二五一空所属機)、艦上爆撃機二十三機と合同、計九十三機の大編隊となってソロモン群島南方海上を、一路ガダルカナル島に向け進撃した。正午、ガダルカナル島突入寸前、右前方高度八千メートルに、双発双胴の怪物戦闘機P-38型五機が現れた。第三直接掩護隊として爆撃隊の千メートル直上にあった我が二五一空の零戦隊が直ちに之に反撃、P-38の一機は黒煙を噴いて撃墜され、残る四機は退却した。
ブイン基地で出撃前の訓示をする総指揮官・五八二空飛行隊長進藤三郎少佐(左)。整列する搭乗員のうち、手前(右)から二〇四空の森崎武予備中尉、宮野善治郎大尉。これが宮野、森崎の姿をこの世にとどめた最後の写真になった十二時十五分、我々はガダルカナル飛行場の直上に殺到した。本年一月皇軍将士が万斛の恨みを呑んで撤退したルンガ川付近の敵陣地からは空を覆う防禦弾幕が撃ち出された。そして右から左から、グラマン、P-39、P-38等数十機の群れが津波のように次から次から襲い掛かって来た。
今や爆撃隊を守り通すために、戦闘機は自らを盾とせねばならなかった。降り注ぐ敵の曳痕弾と爆撃機の間に身を挺して、敵の銃弾をことごとく我が身に吸収し、火達磨となって自爆する戦闘機の姿、それは凄愴にして荘厳なる神の姿であった。一機自爆すれば、また一機が今自爆した僚機の位置に代わって入って、そして、また、敵の銃弾に身を曝して爆撃機を守った。斯くて、爆撃隊が愈々敵の戦慄すべき急降下に移るまでに、被害を受けた爆撃機は皆無であった。
十二時二十分、艦爆二十二機は二隊に別れ、一隊はルンガ岬の敵船団に、一隊はコリ岬の敵船団に真っ逆さまに突っ込んだ。帝国海軍が世界に誇る必殺の急降下爆撃!凡百の姦悪を戦慄の坩堝に叩き込み、轟炸と破滅と火焔と呪詛の地獄に死滅せしめる恐るべき急降下爆撃!防禦砲火の弾幕に天日も暗く、敵の艦船、飛行場、陣地より撃ち出す無数の曳痕弾が億兆の流星となって織り交う中を、唯、尽忠の鬼となって驀進する急降下爆撃機二十二機、その必殺の巨弾は投下された。
一万トンを超える大型輸送船二隻、及び中型輸送船三隻は木っ端微塵となって砕け散り、沈んだ。コリ岬でも輸送船三隻が海底の藻屑と化した。更に防禦砲火によ火を発した艦爆一機は付近海上に逃げ惑う駆逐艦一隻に体当たりを敢行、之を轟沈せしめた。
昭和18年6月16日、ブイン基地を発進する五八二空飛行隊長進藤三郎少佐機。機体の黄帯二線は指揮官標識艦爆と共に急降下した戦闘機群も亦、防禦砲火の洗礼を浴びなければならなかった。然も爆撃を終えて避退する艦爆に対し執拗なる敵戦闘機の攻撃を防がねばならなかった。
海面すれすれを這って高速避退する爆撃機、これに襲いかかる敵戦闘機、これを追い散らし蹴散らす味方戦闘機、スコールのような敵砲火で真っ白に泡立つ海上で、これらの間に凄烈なる戦闘が展開された。艦爆危うしと見るや、救うに術なく、身をもって敵に激突して散った戦闘機、火を吐きつつも艦爆に寄り添って風防硝子を開き、決別の手を振りつつ身を翻して自爆を遂げた戦闘機、あるいは寄り添う戦闘機に感謝の手を振りつつ、痛手に帰る望みなきを知らせて、笑いながら海中に突っ込んでいった艦爆の操縦者。泣きながら、皆、泣きながら戦っていた。
爆撃機の自爆せるもの十三機、戦闘機の還らざるもの十四機。そしてその中には、我が二五一空の香下中尉、大宅中尉、大木飛曹長、山本二飛曹、神田二飛曹、清水二飛曹、奥村上飛の七機が含まれていた。大きな戦果、然し大きな被害であった。
昨夜あんなに朗らかに談笑した戦友が今日はいない。空しく残された夕食の席を見て泣かざる者があろうか。
特に勇敢なること鬼神の如く、温和なること菩薩の如く、機敏なること隼の如き、私の最も良き話し相手であった大木飛曹長の喪失は、前の松本二飛曹未帰還以上の衝撃であった。
「死んだ者のことをくよくよするのは止せ。いずれは早いか遅いかの話だ。我々より一歩お先に靖国神社へ行った戦友を祝福しろ」
と搭乗員を集めて云う私の言葉は、それはそのまま、ともすれば沈みがちな私自身に対する言葉であった。この日味方戦闘機の撃墜せる敵機数三十四機であった。〉
この空戦で戦死した搭乗員のなかには、零戦隊の名指揮官として知られ、ラバウルの海軍航空隊の精神的支柱であった二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉、大野中尉の手記にもある、昭和15年の零戦デビュー戦に参加したベテラン大木芳男飛曹長ら、海軍の至宝とも呼べる搭乗員が多くいる。
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