日本書紀・日本語訳「第二十六巻 斉明天皇」
目次- 斉明天皇 天豊財重日足姫天皇
- 斉明天皇重祚
- 岡本宮の造営
- 阿倍比羅夫の遠征
- 有間皇子の変
- 伊吉博徳の書
- 阿倍臣と粛慎
- 百済滅亡と遺臣
- 西征と天皇崩御
斉明天皇 天豊財重日足姫天皇
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斉明天皇重祚天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみことは、初めは用明天皇の孫高向王たかむこのおおきみに嫁して、漢皇子あやのみこをお生みになった。後に舒明天皇じょめいてんのうに嫁して、二男一女(天智天皇てんちてんのう、間人皇女はしひとのひめみこ、天武天皇てんむてんのう)をお生みになった。二年(舒明じょめい)に立って皇后になられた。そのことは舒明天皇じょめいてんのうの巻に見えている。十三年冬十月、舒明天皇が崩御された。翌年一月、皇后は即位して皇極天皇こうぎょくてんのうとなられた。大化と改元した四年の六月、位を孝徳天皇こうとくてんのうに譲られた。皇極天皇を呼んで皇祖母尊すめみおやのみことといった。孝徳天皇は白雉五年十月に崩御された。元年春一月三日、皇祖母尊すめみおやのみことは飛鳥板蓋宮あすかのいたぶきのみやで即位された。重祚ちょうそし、斉明天皇となる。夏五月一日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみねの上から、西に向って馳せ去った。秋七月十ー日、難波の朝みかどで北(越国こしのくに)の蝦夷えみし九十九人、東あずま(陸奥みちのく)の蝦夷九十五人に饗応された。同時に、百済くだらの調使である百五十人にも饗された。なお栅養きかうの蝦夷九人、津軽つがるの蝦夷六人に冠位それぞれ二階を与えられた。八月一日、河辺臣麻呂かわべのおみまろらが大唐おおもろこしから帰った。冬十月十三日、小墾田に大宮を造って、瓦茸かわらぶきにしようと思われた。しかし、深山幽谷にある宮殿造営用の材は、朽ちたものが多くて、宮を造るのを中止された。この冬、飛鳥板蓋宮あすかのいたふきのみやに出火があった。それで飛鳥川原宮あすかのかわらのみやに遷られた。この年、高麗こま、百済くだら、新羅しらぎがそろって使者を遣わし調を奉った。百済の大使である西部達率余宜受さいほうたつそつよげす、副使である東部恩率調信仁とうほうおんそつちょうしんにらすべて百余人であった。
蝦夷えみし、隼人はやとが仲間を率いて服属し、朝へ物を奉った。新羅は別に及喰弥武きゅうさんみむを人質に、また十二人の才伎者てひと(技芸に長ずる者)を奉った。弥武みむは病になって死んだ。この年、太歳乙卯たいさいきのとう。二年秋八月八日、高麗こまは達沙たつさらを遣わして調を奉った。大使である達沙たつさ、副使である伊利之いりしで、総員八十一人であった。九月、高麗に遣わされた大使は、膳臣葉積かしわでのおみはつみ、副使の坂合部連磐鍬さかいべのむらじいわすき、大判官の犬上君白麻呂いぬかみのきみしろまろ、中判官の河内書首こうちのふみのおびと、小判官の大蔵衣縫造麻呂おおくらのきぬぬいのみやつこまろであった。
岡本宮の造営この年、飛鳥あすかの岡本おかもとにさらに宫地みやところを定めた。おりから高麗こま、百済くだら、新羅しらぎが揃って使者を遣わし調を奉ったので、紺色ふかきはなだ(ツユクサ色)の幕をこの宮地みやところに張って、饗応をされた。やがて宮殿が出来ると、天皇はお移りになった。名づけて後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみやという。多武峯とうのみねの頂上に、周りを取り巻く垣を築かれた。頂上の二本の槻の木のほとりに高殿を立てて名づけて両槻宮ふたつきのみやといった。また天宮あまつみやともいった。天皇は工事を好まれ、水工に溝を掘らせ、香久山の西から石上山にまで及んだ。舟二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宫の東の山に石を積み垣とした。当時の人はこれを謗そしって、「たわむれ心の溝工事。無駄な人夫を三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り、山頂は潰れた」と言った。さらに謗そしって、「石の山岡を造る。造った端から壊れるだろう」あるいは、まだ途中の時に、この謗そしりをしたのかもしれない。またさらに、吉野宮よしののみやを造営された。西海使にしのみちのつかい(遣百済使)の佐伯連栲縄さえきのむらじたくなわ、小山下の難波吉士国勝なにわのきしくにかつらが百済から帰り、鸚鵡おうむ一羽を奉った。岡本宮おかもとのみやに火災があった。三年秋七月三日、都貨邏国とからこくの男二人、女四人が筑紫ちくしに漂着した。「私どもは、はじめ奄美の島に漂着しました」と言った。駅馬を使って都へ召された。十五日に須弥山しゅみせんを像かたどったものを、飛鳥寺あすかでらの西に作った。また、盂蘭盆会うらぼんえを行なわれた。夕方に都貨邏人とからびとに饗を賜った。九月、有間皇子ありまのみこは性さとく、狂者を装ったところがあったと、云々。紀国きのくにの牟婁むろの湯(白浜の湯)に行って、病気療養してきたように見せて、その国の様子を褒め、「ただその場所を見ただけで、病気は自然に治ってしまいます」と、云々。天皇はこれを聞かれ喜んで、自らも行ってみたいと思われた。この年、使者を新羅しらぎに遣わして、「沙門智達さもんちだち、間人連御厩はしひとのむらじみうまや、依網連稚子よさみのむらじわくごらを、新羅しらぎの国の使者につけて大唐おおもろこしに送りたいと思う」と言われた。新羅しらぎはそれに従わなかった。それで沙門智達ちだちらは帰国した。西海使にしのみちのつかいの小花下の阿曇連頰垂あずみのむらじつらたり、小山下の津臣偃僂つのおみくつまが百済くだらから帰って、駱駝らくだ一匹、驢馬ろば二匹を奉った。石見国いわみのくにから、「白狐を発見しました」と言ってきた。四年春一月十三日、左大臣ひだりのおとどの巨勢徳太臣こせのとこだのおみが死去した。
阿倍比羅夫の遠征夏四月、阿陪臣あべのおみが船軍百八十艘を率いて蝦夷えみしを討った。秋田と能代の二郡の蝦夷は、遠くから眺めただけで降伏を乞うた。そこで軍を整え、船を齶田浦あきたのうら(秋田湾)につらねた。秋田の蝦夷の恩荷おがは、進み出て誓っていった。「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦あきたのうらの神がお咎めになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」恩荷おがに小乙上の位を授け、能代のしろと津軽つがるの二郡の郡領こおりのみやつこに定められた。有間ありまの浜に渡嶋おしまの蝦夷どもを召し集めて、大いに饗応きょうおうして帰らせられた。五月、皇孫の建王たけるのみこは八歳で亡くなられた。今来谷いまきのたにのほとりに、殯宮もがりのみやを建てて収められた。天皇は皇孫が美しい心であったため、特に可愛いがられた。悲しみに堪えられず、慟哭どうこくされることが甚だしかった。群臣まえつきみに詔みことのりして、「我が死後は必ず二人を合葬するように」と言われた。そして歌を詠まれた。
イマキナル、ヲムレガウへニ、クモダニモ、シルクシタタバ、ナニカナゲカム。今木いまきの小丘の上に、せめて雲だけでもはっきり立ったら、何の嘆くことがあろうか。(その一)
イユシシヲ、ツナグカハへノ、ワカクサノ、ワカクアリキト、アガモハナクニ。射かけた鹿のあとをつけて行くと、行きあたる川辺の若草のよぅに、幼なかったとは私は思わないのに。(その二)
アスカガハ、ミナギラヒツツ、ユクミヅノ、アヒダモナクモ、オモホユルカモ。飛鳥川あすかがわが水をみなぎらせて、絶え間なく流れて行くよぅに、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。(その三)
天皇はときどきこれを歌って、悲しみ泣かれた。秋七月四日、蝦夷えみしが二百人あまり、朝廷に参上し物を奉った。常にも増して饗応きょうおうされ、種々の物を与えられた。栅養きかうの蝦夷二人に、冠位一階を授けられた。淳代郡ぬしろのこおり(能代)の大領の沙尼具那さにぐなに小乙下を、少領の宇婆佐うばさには建武けんむ、勇壮な者二人に位一階、特に沙尼具那さにぐならに蛸旗たこばた(上部が蛸に似ている旗)二十頭、鼓二箇、弓矢二具、鎧二領を賜わった。津軽郡つかるのこおりの大領である馬武めむに大乙上、少領だる青蒜あおひるに小乙下、勇壮な者二人には位一階を授けられた。別に、馬武めむらに銷旗あおひる二十頭、鼓二箇、弓矢二具、鎧二領を賜わった。都岐沙羅つきさらの栅造きのみやつこには位二階を授けられた。判官には位一階、淳足ぬたりの栅造大伴君稲積きのみやつこおおとものきみいなつみには小乙下を授けられた。淳代郡ぬしろのこおりの大領沙尼具那さにぐなに詔みことのりして、蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調査させた。この月、沙門智通ほうしちつう、智達ちたつは勅みことのりを承って、新羅の船に乗って大唐おおもろこしに行き、無性衆生義むしょうしゅじょうのことわりを玄奘法師げんじょうほうし(三蔵法師)について学んだ。
有間皇子の変冬十月十五日、紀の湯に行幸された。天皇は建王のたけるのみこことを思い出して、いたみ悲しまれ、そして歌を口ずさまれた。
ヤマコエテ、ウミワ夕ル卜モ、オモシロキ、イマキノウチハ、ワスラユマジニ。山を越え海を渡る面白い旅をしていても、建王のいたあの今木の中のことは、忘れられないだろう。(その一)
ミナ卜ノ、ウシホノクダリ、ウナクダリ、ウシロモクレニ、オキテカユカム。海峡の潮の激流の中を、舟で紀州へ下って行くが、建王のことを暗い気持ちで、後に残して行くことであろうか。(その二)
ウツクシキ、アガワカキコヲ、オキテ力ユカム。かわいい私の幼子を、後に残して行くことであろうか。(その三)
秦大蔵造万里はたのおおくらのみやつこまりに詔みことのりして、「この歌を後に伝えて、世に忘れさせないようにしたい」といわれた。十一月三日、留守を守る役目の蘇我赤兄そがのあかえが、有間皇子ありまのみこに語って、「天皇の治政に三つの失政があります。大きな蔵を立てて、人民の財を集め積むことが、その一。長い用水路を掘って、人夫にたくさんの食糧を費やしたことが、その二。舟に石を積んで運び、岡を築くというようなことをしたことが、その三です」と言った。有間皇子ありまのみこは、赤兄あかえが自分に好意を持っていてくれることを知り、喜んで応答して、「我が生涯で始めて兵を用いるべき時がきたのだ」と言った。五日、有間皇子ありまのみこは赤兄あかえの家に行って、高殿に上って相談した。そのとき、床几がひとりでに壊れた。不吉の前兆であると知り、秘密を守ることを誓って中止した。皇子が帰って寝ていると、この夜中に赤兄は、物部朴井連鮪もののべのえのいのむらじしびを遣わして、造宮工事の人夫を率い、有間皇子の市経いちぶ(生駒町一分)の家を囲んだ。そして早馬を遣わして天皇のところへ奏上した。九日、有間皇子ありまのみこと守君大石もりのきみおおいし、坂合部連薬さかいべのむらじくすり、塩屋連鯯魚しおやのむらじこのしろとを捕えて、紀の湯に送った。舍人とねりの新田部米麻呂にいたべのこめまろが従って行った。皇太子(中大兄皇子なかのおおえのみこ)は自ら有間皇子に問われて、「どんな理由で謀反を図ったのか」と言われた。答えて申されるのに、「天と赤兄あかえが知っているでしょう。私は全く分かりません」と言われた。十一日、丹比小沢連国襲たじひのおざわのむらじにくそを遣わして、有間皇子を藤白坂ふじしろのさかで絞首にした。この日、塩屋連鯯魚しおやのむらじこのしろ、舎人とねりの新田部連米麻呂にいたべのこめまろを藤白坂ふじしろのさかで斬った。塩屋連鯯魚しおやのむらじこのしろは殺されるという時に、「どうか右手で国の宝器を作らせて欲しいものだ」と言った(意味は不明)。守君大石もりのきみおおいわを上毛野国かみつけののくにに、坂合部薬さかいべのくすりを尾張国おわりのくにに流した。
ある本によると、有間皇子ありまのみこは、蘇我赤兄そがのあかえ、塩屋連小才しおやのむらじこさい、守君大石もりのきみおおいわ、坂合部連薬さかいべのむらじくすりと、短籍ひねりぶみ(短い紙片で作った籤)を作って、謀反のことを占ってみた。ある本には、有間皇子が、「まず大宮を焼いて、五百人で一日ニ夜、牟婁津むろのつに迎え討ち、急ぎ舟軍で、淡路国を遮り、牢屋に囲んだようにすれば、計画は成り易い」と言った。ある人が諫めて、「よくないことです。計画はそれとしても徳がありません。皇子は今十九歳です。まだ成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」と言った。別の日に、有間皇子が、一人の判事(刑部省の官人)と、謀反について相談したとき、皇子の机の脚が故なく折れたが、謀略をやめられず、ついに殺された、とある。
この年、越国守阿倍引田臣比羅夫こしのくにのかみあべのひけたのおみひらぶが、粛慎を討って、ヒグマ二匹、ヒグマの皮七十枚を奉った。沙門智踰ちゆが指南車しなんのくるま(磁石で常に南方を示す車)を造った。出雲国いずものくにより報告があり、「北の海の浜に魚がたくさん死んで、積み上げられています。厚さは三尺ばかり、その魚の大きさは河豚ふぐくらいで、雀すずめのようなロをもち、針のような鱗うろこがあります。鱗の長さは数寸です。土地の人々が言うのには、『雀が海中に入って魚になったものだから雀魚すずみおという名だ』いうことです」とあった。
ある本によると、六年七月に百済が使者を遣わして、「大唐と新羅とが力を合せて、我が国を攻めました。そして、義慈王ぎじおう、王后、太子を捕虜として連れ去りました。このため国では戦士を西北の境に配置し、城栅を繕い、山川を断ち塞ぎました。これはそのことの前兆です」と言った。
また西海使にしのみちのつかいの小花下阿曇連頰垂あずみのむらじつらたりが、百済から帰っていぅのに、「百済は新羅を討って帰ってきました。そのとき馬はひとりでに、寺の金堂の周りをめぐり歩き、昼夜止むことがありませんでした。ただ草を食べる時にだけは休みました」と報告した。
ある本に、これは庚申かのえさるの年になつて、敵のために滅ぼされる前兆であるとしている。
五年春一月三日、天皇は紀の湯から帰られた。三月一日、天皇は吉野にお出でになって、大宴会を催された。三日、天皇は近江おうみの平浦ひらのうら(志賀町比良の浦)にお出でになった。十日、吐火羅とからの人が、妻の舎衛の婦人と共にやってきた。十七日、甘橿丘うまかしのおかの東の川原に須弥山しゅみせんを造って、陸奥みちのくと越国こしのくにの蝦夷えみしを饗応きょうおうされた。この月に、阿倍臣あべのおみを遣わして、船軍百八十艘を率いて蝦夷の国を討った。阿倍臣あべのおみは飽田あきた(秋田)と渟代ぬしろ(能代)二郡の蝦夷二百四十一人と、その捕虜三十一人、津軽郡つかるのこおりの蝦夷百十二人とその捕虜四人、胆振鉏いぶりさえの蝦夷二十人をーヵ所に集めて大いに饗応し、物を与えられた。船ー隻と五色に染め分けた絹を捧げて、その土地の神を祀った(海神なので舟を捧げた)。肉入籠ししりこに至ると、問菟というの蝦夷の胆鹿嶋いかしま、菟穂名うほなの二人が進み出て言うのに、「後方羊蹄しりへしを政庁(郡家)として頂きたい」と願った。胆鹿嶋いかしまらの言葉に従って、郡家を設けて帰った。陸奥みちのくと越国司こしのくにのつかさに位それぞれ二階を、郡領ぐんりょうと主政まつりごとひととにそれぞれ一階を授けた。
ある本に、阿倍引田臣比羅夫あべのひけたのおみひらぶが粛慎みしはせと戦って帰り、捕虜四十九人を奉ったとある。
秋七月三日、小錦下坂合部連石布しょうきんげさかいべのむらじいわしき、大仙下津守連吉祥だいせんげつもりのむらじききを唐もろこしに遣わした。そのとき、陸奥の蝦夷男女二人を唐の天子にお目にかけた。
伊吉博徳の書伊吉連博徳いきのむらじはかとこのの書ふみ(書紀の参考資料とされた書物)に、この天皇の御世に、小錦下の坂合部石布連さかいべのいわしきのむらじ、大山下の津守吉祥連つもりのきさのむらじらの二隻の船が、呉と唐への航路に遣わされた。この年の七月三日、難波なにわの三津浦みつのうらから船出した。八月十一日に筑紫の大津の浦おおつのうら(博多湾)を出た。九月十三日に百済の南の辺の島に着いた。島の名はよく分らない。十四日の午前四時頃、二船相伴って大海に出た。十五日、日没の頃、石布連いわしきのむらじの船が、横からの逆風に流され、南の海の島に漂着した。島の名は爾加委にかいといった。島人によって殺された。東漢長直阿利麻やまとのあやのながのあたいありま、坂合部連稲積さかいべのむらじいなつみら五人は島人の船を盗み、乗って逃げて括州かつしゅうに着いた。州県の役人が洛陽らくようの都へ送り届けた。十六日の夜半、吉祥連きさのむらじの船は越州の会稽かいけい県の須岸山しゅがんさんに着いた。東北の風が吹き、しかも強かった。二十二日に余姚県よようのあがたに着いた。乗ってきた大船と種々の調度品をそのところに留めおいた。閏うるう十月一日に越州の州である衙がに着いた。十五日に、駅馬に乗って長安ちょうあんの都に着いた。二十九日に洛陽らくようの京に着いた。天子は東都洛陽におられた。三十日に天子にお目にかかり、尋ねられて、「日本国の天皇は、お変りはないか」と言われた。使者は謹んで、「天地の徳を合せて、平安であります」と答えた。天子は問うて、「帝の卿けいらも変りはないか」使者は、「天皇の恵み深く、変ったことはありせん」と答えた。天子が尋ね、「国内は平和か」使者は、「政道天地にかなって、万民無事です」天子、「ここにいる蝦夷えみしの国は、どちらの方角にあるのか」使者は、「国の東北の方角にあります」天子は、「蝦夷には何種類あるのか」使者は、「三種あります。遠い所のものを都加留つかる(津軽)と名づけ、次の者を麁蝦夷あらえみしと名づけ、一番近いものを熟蝦夷にきえみしと名づけています。今ここにいますのは熟蝦夷です。毎年、日本の朝廷に入貢します」天子は、「その国には五穀があるのか」使者は、「ありません。肉食によって生活します」天子は、「国に家屋はあるのか」使者は、「ありません。深山みやまの樹の下に住んでいます」天子は、「自分は蝦夷の顔や体の異様なのをみて、大変奇怪に感じた。使者らは遠くからやってきて苦労だったろう。退出して館むつろみで休むがよい。また後に会おう」と言われた。十一月一日、朝廷で冬至のお祝いがあった。その日にまたお目にかかった。拝謁した諸蕃くにぐにの中で、日本の客人は最も優れていた。後に出火騒ぎがあったため、また詳しく調べ回れなかった。十二月三日、韓智興かんちこうの供人ともびとの西漢大麻呂こうちのあやのおおまろが、我ら客人を讒言ざんげんした。客人らは唐朝に罪ありとせられ、流罪の刑に定められた。その前に智興ちこうを三千里(最高)の流刑に処した。客の中に伊吉博徳いきのはかとこがあり、釈明した。そのために刑を免ぜられることになった。事件が終わって勅旨ちょくしがあり、「我が国は来年必ず海東の政をするだろう(朝鮮と戦争するだろう)。お前達日本の客も、東に帰ることが許されない」と言われた。ついに長安ちょうあんに足止めされ、別のところに幽閉された。戸を閉ざされ、自由を拘束された。何年も苦しんだという。難波吉士男人なにわのきしおひとの書いたものに、大唐おおもろこしに向った大使は、島に衝突して転覆した。副使が天子にお目にかかり、蝦夷をお見せした。蝦夷は白鹿の皮一、弓三、箭や八十を天子に奉ったとある。十五日、群臣まえつきみに詔みことのりして、京内の諸寺に、盂蘭盆経うらぼんきょうを講説させて、七世ななつぎの父母に報いさせられた。この年、出雲国造いずものくにのみやつこに命ぜられて神の宮(意宇郡おうのこおりの熊野大社)を修造させられた。そのとき狐が、意宇郡おうのこおりの役夫の採ってきた葛かずら(宮造りの用材)を嚙み切って逃げた。また犬が死人の腕を、揖屋神社いうやのやしろのところに嚙って置いていた。天子の崩御の前兆である。また高麗こまの使者が、ヒグマの皮一枚を持ち出して、「綿六十斤でどうだ」と言った。市司いちのつかさ(物価係の役)が笑って立ち去った。高麗画師子麻呂こまのえかきこまろは、同姓の客(高麗の使者)を自分の家へ招いてもてなす日に、官のヒグマの皮七十枚を借りて、客の席に敷いた。客らは恐れ怪しんで退出した。六年春一月一日、高麗こまの使者である乙相賀取文おつそうがすもんら百人余りが筑紫に着いた。
阿倍臣と粛慎三月、阿倍臣あべのおみを遣わして船軍二百隻を率い、粛慎国みしはせのくにを討たせた。阿倍臣あべのおみは陸奥みちのくの蝦夷を自分の船にのせ、大河おおがわのほとりまできた。すると渡島おしまの蝦夷が一千余、海のほとりにむらがり、河に面して屯営とんえいしていた。営の中の二人がにわかに呼びかけて、「粛慎みしはせの船軍が多数おしかけて、我らを殺そうとしていますので、どうか河を渡ってお仕えすることを、お許し下さい」という。阿倍臣あべのおみは船をやって二人の蝦夷を召し寄せ、賊の隠れ場所と船の数を尋ねた。二人の蝦夷は隠れ場所を指さして、「船は二十隻あまりです」という。使者をやって呼んだ。しかしやってこなかった。そこで阿倍臣あべのおみは、綵絹しみのきぬ、武器、鉄などを海辺に積んで、見せびらかし欲しがらせた。粛慎みしはせは船軍を連ねて、鳥の羽を木に掛け、それを上げて旗としていた。舟の棹を揃え操って近づき、浅いところに止まった。一隻の舟の中から、二人の老翁おきなが出てきて、積み上げられた綵絹しみのきぬなどの品物をよくよく調べた。それから単衫ひとえきぬに着替えて、それぞれ布一端を提げて、船に乗って引上げた。しばらくすると老翁おきながまた来て、着替えた衣を脱ぎ、持ってきた布を置いて、船に乗って帰った。阿倍臣あべのおみは多くの船を出して、粛慎人みしはせびとを呼ばせたが、聞き入れることなく、弊賂弁島へろべのしまに帰った。しばらくしてから和を乞うてきたが成立せず、自ら築いた栅にこもって戦った。能登臣馬身竜のとのおみまむたつは、敵のために殺された。戦いが充分熟さないうちに、敵方は自分らの妻子を殺して敗走した。夏五月八日、高麗こまの使者である乙相賀取文おつそうがすもんらが、難波なにわの館むつろみに着いた。この月、役人たちは勅みことのりを承って、百の高座、百の納袈裟を作って、仁王般若波羅密経におうはんにゃはらみっきょうの法会ほうえを設けた。また皇太子(中大兄皇子なかのおおえのみこ)が初めて漏刻ろうこく(水時計)をつくり、人民に時を知らせるようにされた。また阿倍引田臣あべのひけたのおみは、蝦夷五十余人を奉った。また石上池いそのかみのいけの辺りに須弥山しゅみせんを造った。高さは寺院の塔ほどあった。粛慎みしはせ四十七人に饗応きょうおうをされた。また国中の人民たちが、理由なく武器を持ち道を行き来した。故老ころうは、百済国くだらこくが滅亡する兆しかといった。秋七月十六日、高麗こまの使者である乙相賀取文おつそうがすもんらは帰途についた。また都貨羅人乾豆波斯達阿とからのひとけんずはしたちあは、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。その印に妻を残して参ります」と言った。そして十人余りの者と、西海の帰途についた。高麗の法師である道顕どうけんの日本世記に、七月云々とある。新羅しらぎの春秋智しゅんじゅうち(太宗武烈王)は、唐の大将軍である蘇定方そていほうの手を借りて、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。他の説では百済は自滅したのであるとされる。王の大夫人が無道で、ほしいままに国権を私し、立派な人たちを罰し殺したので禍を招いたので、気をつけねばならぬ、ということである。その本の註に、新羅の春秋智しゅんじゅうちは、高句麗こうくりの内臣である蓋金こうきんに助力の願いをいれられず、さらに唐に使者を送り、新羅の服を捨てて唐服を着て、天子に媚び、隣国を併合する意図を構えたとある。伊吉連博徳いきのむらじはかとこの書には、この年八月、百済がすでに平定させられた後、九月十二日に日本の客人を本国に放免した。十九日、長安ちょうあんを発った。十月十六日、洛陽らくように帰り、はじめて阿利麻ありまら五人に会うことが出来た。十一月一日、将軍蘇定方そていほうらのために捕らえられた百済王以下太子隆ら、諸王子十三人、大佐平沙宅千福さたくせんふく、国弁成こくべんじょう以下三十七人、合せて五十人ばかりの人を、朝に奉るため、にわかに引き連れて天子のところに赴いた。天子は恵みを垂れて、楼上から目の前で俘虜ふりょたちを釈放された。十九日、我々の労を労われ、二十四日洛陽らくようを発ったとある。
百済滅亡と遺臣九月五日、百済くだらは達率沙弥覚従たつそつさみかくじゅらを遣わして奏上させ、「今年の七月、新羅は力をたのんで勢いをほこり、隣と親しまず、唐人を引き入れて、百済を転覆させました。君臣、皆、虜とされほとんど残る者もありません」と言った。
ある本によると、今年七月十日、唐の蘇定方そていほうが船軍を率いて、尾資の津びしのつに陣どった。新羅の王の春秋智しゅんじゅうちは兵馬を率いて、怒受利山のずりのむれに陣した。百済を挟み撃ちにして戦うこと三日、我が王城は陥落、王は難を避けたが、ついに再び破れた。怒受利山は百済の東の境であるとある。西部恩率鬼室福信さいほうおんそつきしつふくしんは激しく発憤して、任射岐山にざぎのむれに陣どった。ある本には北任叙利山きたのにじょりのむれとある。中部の達率余自進たつそつよじしんは、久麻怒利城くまのりのさしに拠り、それぞれ一所ひとつところを構えて散らばっていた兵を誘い集めた。ある本では都々岐留山つつきるのむれとある。
武器は先の戦いの時に尽きてしまったので、掊つかなぎ(手に握る棒)で戦った。新羅の軍を破り、百済はその武器を奪った。すでに百済の兵は戻って鋭く戦い、唐軍はあえて入ることが出来なかった。福信ふくしんらは同国人を呼び集めて、共に王城を守った。国人は尊んで、「佐平福信さへいふくしん、佐平自進さへいじしん」と崇めた。「福信ふくしんは神武の権はかりごとを起して、一度滅んだ国さえも興おこした」と言った。冬十月、百済の佐平鬼室福信さへいきしつふくしんは、佐平貴智さへいきちらを遣わして、唐もろこしの俘虜ふりょ百余人を奉った。今、美濃国みののくにの不破郡ふわのこおり、方県郡かたあがたのこおり(稲葉郡いなばのこおり、本巣郡もとすのこおり)の唐人からひとたちである。また、援軍を乞い、同時に王子である余豊璋よほうしょうを頂きたいと言い、「唐人からひとは、我らの身中の虫しんちゅうのむし(新羅しらぎ)を率いて来り、我が辺境を犯し、我が国を覆し、我が君臣を俘とりこにしてしまいました」と告げた。
百済の王である義慈ぎじ、その妻の恩古おんこ、その子の隆りゅう、その臣おみの佐平千福さへいせんふく、国弁成こくべんじょう、孫登そんとうら、すべて五十人余、秋七月十三日、将軍の蘇そのために捕えられ唐もろこしに送られた。先に人民が故無くして武器を持ち歩いたのは、このことの前兆だったのだろうか。
「しかし、百済国は遥かに天皇の御恵を頼りとして、さらに人々を集め国を盛り返しました。今、謹んでお願いしたいのは、百済国くだらこくが天朝に遣わした王子の豊璋ほうしょうを迎えて、国王としたいということであります」云々と言った。詔みことのりして、「救援の軍を乞うていることは、前からよく聞いている。危きを助け、絶えたものを継ぐべきことは当然のことである。今、百済国が窮して、我に頼ってきたのは、本の国が滅んでしまって、依る所も告げる所もないからである。臥薪嘗胆がしんしょうたんしても必ず救いをと、遠くから申してきている。その志は見捨てられない。将軍たちにそれぞれ命じて、八方から共に進むべきである。雲のように集い、雷のように動いて、共に沙喙さたく(新羅の地)に集まれば、その仇を斬り、その差し迫った苦しみをゆるめてやれよう。役人たちは王子のために充分備えを与え、礼をもって送り遣わすように」云々と述べられた。王子豊璋ほうしょうおよび妻子と叔父の忠勝ちゅうしょうらを送った。その発った時のことは七年の条にある。ある本に、天皇が豊璋ほうしょうを立てて王とし、塞上さいじょう(豊璋の弟)をその助けとし、礼をもって送り出したとある。十二月二十四日、天皇は難波宮なにわのみやにお出でになった。天皇は福信ふくしんの願いに応じて、筑紫に行幸し、将軍を送ろうと思われ、まずここに種々の武器を準備された。この年、百済のために新羅を討とうと思われ、駿河国するがのくにに勅みことのりして船を造らせられた。造り終わって続麻郊おみの(伊勢国多気郡麻績)にひいてきたとき、その船は夜中に故もなく、艫ろと舳へとが入れ替っていた。人々は戦ったら敗れることを悟った。科野国しなののくに(信濃国)から言ってきた。「蠅はえの大群が西に向って、巨坂おおさかを飛び越えていきました。大きさは十人で取り囲んだ程で、高さは大空に達していました」これは救援軍が破れるという徴しるしだろうと悟った。童謡わざうたが行なわれた。
マヒラク、ツノクレツレ、オノへタヲ、ラフクノリ力リガ、ミワタトノリ力ミ,ヲノへタヲ、ラフクノリ力リガ、カウシ卜ワ、ヨ卜ミ、ヲノへタヲ、ラフクノリ力リガ。背中の平たい男が作った山の上の田を、雁どもがやってきて食う。天皇の御狩りが疎かだから雁が食うのだ。御命令が弱いから雁どもが食うのだ。(征西軍の成功しないことを諷ふうしたものと思われるが、未だよく解明されていない)
西征と天皇崩御七年春一月六日、天皇の船は西に向って、航路についた。八日、船は大伯の海おおくのうみ(岡山県邑久の海)に着いたとき、大田姫皇女おおたのひめみこ(中大兄の子で、大海人皇子の妃)が女子をお生みになった。それでこの子を大伯皇女おおくのひめみこと名づけた。十四日、船は伊予いよの熟田津にきたつ(愛媛県松山市付近)の石湯行宮いわゆのかりみや(道後温泉)に泊った。三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津なのおおつ(博多港)についた。磐瀬行宮いわせのかりみや(福岡市三宅付近)にお入りになった。天皇は名を改めてここを長津ながつ(那河津)とされた。夏四月、百済くだらの福信ふくしんが使者を遣わして表を奉り、百済の王子である糺解くげ(豊璋)をお迎えしたいと乞うた。釈道顕ほうしどうけんの日本世記には、百済の福信は書を奉って、その君である糺解くげのことを東朝みかどに願ったとされる。またある本に、四月、天皇は朝倉宮あさくらのみや(福岡県朝倉町)に移り住まれたとある。五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやにお移りになった。このとき朝倉社あさくらのやしろの木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火おにびが現れた。このため大舍人おおとねりや近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった。二十三日、耽羅たんら(済州島)がはじめて王子阿波伎あわぎらを遣わして調を奉った。伊吉博徳いきのはかとこの書に、この年一月二十五日、越州えっしゅう(杭州湾南岸)についた。
四月一日越州えっしゅうから出発して東に帰った。七日檉岸山ちょうがんさんの南についた。八日暁、西南の風に乗って船を大海に出した。海上で路に迷い漂流して苦しんだ。九日八夜してやっと耽羅島たんらのしまに着いた。島人の王子である阿波伎あわぎら九人を招きもてなし、使者の船に乗せて、帝に奉ることとした。五月二十三日、朝倉あさくらの朝廷に奉った。耽羅たんらの人が入朝するのは、この時に始まった。また智興ちこうの供人ともびとの東漢草直足島やまとのあやのかやのあたいたりしまのために讒言ざんげんされ、使者らは唐もろこしの朝廷から寵命ちょうめい(お褒めの言葉)を受けられなかった。使者らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷に打たれて死んだ。当時の人は、「倭やまとの天の報いは早いことだ」と言ったとある。六月、伊勢王いせのおおきみが薨こうじた。秋七月二十四日、天皇は朝倉宮あさくらのみやに崩御された。八月一日、皇太子(中大兄なかのおおえ)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮いわせのみやに着かれた。この宵、朝倉山あさくらやまの上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。冬十月七日、天皇の亡骸は帰路についた。皇太子はとあるところで停泊して、天皇をしたい悲しまれて、口ずさんで歌われた。
キミガメノ、コホシキカラニ、ハテテヰテ、カクヤコヒムモ、キミガメヲホリ。あなたの目の恋しいばつかりに、ここに船泊りしていて、これほど恋しさに堪えないのも、あなたの目を一目見たいばかりなのです。
二十三日、天皇の亡骸は、帰って難波なにわに泊った。十一月七日、天皇の亡骸なきがらを飛鳥川原あすかのかわらに殯もがりした。この日から九日まで悲しみの発哀みねを捧げた。
日本世記には、十一月に福信ふくしんが捕えた唐人からひとの続守言しょくしゅげんらが筑紫に着いたとある。またある本には、この年に百済の佐平福信が奉った唐の俘とりこ百六人を、近江国おうみのくにの墾田はりた(開墾地)に居らしめたとある。昨年すでに福信ふくしんは唐もろこしの俘虜ふりょを奉ったことが見えている。今、書き留めておくので何れかに決めよ。
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